よーしあーきーと時々ラテとはろ&ちび

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実体験

人の痛みを理解出来ることはない。

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また、だから何?て話を長々と綴っているのですが。

過去とトラウマ

僕は、分裂病症状真っ只中にいたとき、母から直接「キチガイ」と、何度もこの言葉で罵倒されていた。地震のように予期せず、急に暴れ出す息子と二人だけの生活で、母には逃げ場がなかったのだから、感情的にそう言ってしまうのは、今思えば仕方がなかったことなのだろう。
他にも、小学生の頃から、とても仲が良かった一人の友達からも、これは直接的な言葉ではなかったが、侮蔑を表す行動、表現はされた。
当時は、僕自身にも非があったにせよ、やはり深く傷付いたものだった。

しかし、今はその急性的な状態から脱し、運良く労働にもありつけ、自分自身の生活を手にしている。
当時、傷付けられてきた言動からも、僕個人は離れることが出来、直接浴びせられることはなくなった。
微々たるものだけど、少しの余裕も生まれ、恵まれたことに、自分がやりたいと思ったことを、すぐにでも始められる環境にもある。
そうして、いつからか、そういった人の言動は、もうどうでもよくなっていき、実際、ネットの掲示板では、毎日のように「キチガイ」「ガイキチ」といった単語が踊るが、それを見ても何も感じなくなっている。し、かなり下品だけども、好きに使えばいいと思う。

とはいえ、今なお少なからず“トラウマ”として残ってはいるようだった。
この「キチガイ」という単語は、非常識的な物事の振る舞いに向かって使う人もおり、それは僕の周りにも多く存在している。
ただ、僕に向かって放たれた言葉ではないにせよ、その言葉を近しい人の口から発せられると、未だ僕の心はゆらゆらと、いや、心の奥底ではグチャグチャと掻き乱される感覚があった。
どうやら、身近な人のその言葉には、結構敏感に反応するらしい。
そのことを相手に伝えているのか。と、言われれば、幾ら言っても伝わらないだけで、僕の中では何度も試みている。と、僕自身は思っている。
その僕の伝え方に問題があるといえばあるだろうし、ただ、身近な人ほど「そんなつもりはない」と、互いに意地の張り合いとなり、喧嘩で終わってしまうことがしばしばある。
また、身近な人ほど放っておいてはくれないもので、「ああそうでしたか」と、すんなりと受け入れられることも、突き放されることもない。
相手を思う余りに「ああしろ、こうしろ」と、先んじて感情も露わに介入が起こり、それを排除することに労力を割かれ、疲れて、何を話そうとしていたのかさえ、わからなくなってしまうことが多い。
これは、あくまでも、どちらか一方の責任ではなく、お互い様である。どことなく、構って欲しいオーラも放ってるだろし、僕も悪い。

人の痛みを理解出来ることはない。

こういった個人の事柄には、目の前で起きた事実をそっくりそのまま羅列していく帰納法のような手段を用い、納得解を探るべきと考えるが、余計な知識や偏見、思いこみのため生身の人では難しい。
どうしても、抽象的で普遍的な正解を押しつけてしまう、演繹法なアプローチにならざるを得ない。
なので、正直なところ、苦しみ、痛みは、実際に当人が経験しなくては理解出来ないことだと思う。
しかし、それでも、同じ統合失調症と診断されても、人が違えば痛みの感じ方も変わるし、環境によっても痛む箇所が変わってくるので、経験したからといって、安易に他人の痛みをも理解出来るものでもないだろう。と、同時に、僕のような人間を家族に持つ、親兄弟にも痛みはあるだろうが、それは僕には理解出来ない。
ほとんどの人が、事実に対し勝手に正解のような物語をオーバーラップさせ、人の苦痛を理解出来ていると誤解をしている。
それは、関係性が近ければ近いほど、若しくは、距離感を誤ると、何とかしてあげようとややこしさも増す。
やはりこれは、あわよくばと人に理解をしてもらおうとの視点が間違えており、これは僕自身の課題であって、“トラウマ”としたのはそのため。
僕自身が、乗り越えなくてはならない課題。今までも、そうやって来た。
ちょっと前に流行ったアドラーの思想を紹介した本にも、自分の課題なのか、人の課題なのかを見分けることが大切と書いてある。
その人の課題は、その人自身が克服しなくては意味がない。
本当のヘルプサインが無い限りは、他人が深く関わらないこと。
全体通して厳しい内容だったが、とても納得が出来る内容だった。

僕は前述した通り、「キチガイ」という言葉を使いたければ、かなり下品ではあるのだが、人の機会さえ奪わなければ、どうぞご自由にと思う。
そもそも、日本人だけであっても、全員の言動を規制することは出来ないし、してはならないことだ。
あとは、僕の場合は、近しい人から無意識に放たれるその言葉を、今後、どのように克服していけるかであろう。
誰かが悪い訳ではないし、誰かが改めなくてはならないことでもない。
僕個人の課題だ。
そう言えば、先日、「君は潔癖過ぎる」と、言われたなあ。

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