よーしあーきーと時々ラテとはろ&ちび

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障害者支援

共生とは?

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共生とは意識してするものでも、させられるものでもない

僕は、生命を授かった瞬間から、自然と共生は始まっている考えるのですが、富山型共生施設で私たちにさらに意識付けられる共生とは、一体何のことなのでしょうか。
また、敢えて、共生を意識させられなければならないのは、なぜなのか。
そして、当該施設に通所、或いは、入所をすることが共生すること。と、論理のすり替えが起きてはいないでしょうか。

感動ポルノと政治

障害者にとっていい迷惑が起こる側面には、日本人の感動好きな国民性がある。と、僕は捉えています。
大衆は無関心な割に、僕たちのような、自身の力で働き稼ぎ暮らせない人たち、つまり、労働力にならない、かわいそうな人たち。それらの人が肩を寄せ合い、なんとか暮らしている姿、こういった美談が大好物です。いわゆる感動ポルノ。
なので、他人任せにしていると、そのかわいそうな人たちをひとまとめにし、富山型共生や屋根のない施設(シェア金沢)といった、より美しく見えるもの、より美しさを共感出来る者だけの空間にしてしまおう。と、いった動きは、必然でしょう。
また、甚だしい勘違いが国民の中で共有されているのをよく見聞きしますが、政治というのは、鷲掴みにされたマクロなニーズにしか、対応出来ないです。
そのマクロな視点からすれば、富山型共生といった鷲掴み施設型は、いち分野の掛かるコストの字面を削減することが出来るので、非常に合理的に映ってしまいます。
これは、地方政治でも同様で、個別のミクロなニーズには対応出来ない。し、してはいけない。
本当の庶民感覚からは規模が大きくなりますが、今、世間で流行りの忖度は、私益といったミクロなニーズを満たす行為で、権力乱用の象徴であって邪道政治です。

利益誘導による後退

この動きが、障害者の自らの意志によって出来たもの、つまり、自然発生的なものであるのなら、僕は文句のひとつもないのです。
例えば、古くは、フリーメーソンや近代ではイタリアンマフィアなどは、自らの生活を守るために、似た境遇の者同士が集まり、自然とコミュニティを形成しました(良い反面、反作用もあります。内向的になり不透明なので、アリもしない噂が流れることもしばしば。狭い世界での権力闘争にも発展します)。が、このような、政治や一般大衆からの利益誘導といった余計なお節介によって、形成させられるのでは、何も解決にもなりません。
寧ろ、1990年の初めまでは、施設によって壊された自然状態を大きな波に乗って取り戻して来ていたのに、これによって非労働力層コロニーとして分離を促進されるのだから、事は後退なんです。
富山型共生施設(というよりも、最近の傾向は、障害者事業に参入した方が安定しやすいので、今は各事業が高齢者のみの事業から複合的になっています)が当たり前になれば、もとから煩雑だった事務作業を2種類こなさなくてはならないので、労力が掛かります。
現に、不満の声はあって、介護保険法に一本化する声が強くなっています。
ならば、そもそもの事務自体を撤廃し、もっとシンプルにベーシックインカムのようにすればいいのですが、それは自らの飯の種を潰すことになるので、そこまでは考えようともしない。
残念ながら、20歳から介護保険料を徴収し、制度を一本化しようといった動きが活発化しています。
介護保険となれば、一層計画経済色が濃くなりますので、国民目線からすれば、尚のこと理解し難い計画に沿った成果を求められることになります。
また、このことを意識出来る障害当事者も少なく、何故か内輪揉めをしている有様。
ひどく失望しています。

人任せにしない

ここで僕なりの結論を。
個人のミクロなニーズをも満たすために、僕たちが出来ることというのは、実際に経験をして来た僕たち自身が、様々な道具と方法を駆使して動かなくてはなりません。
問題なのは、自身がどうしたいか。であって、他人からどうしてもらいたいか。では、ありません。
他人には、自身が味わって来た苦悩は理解しきれないのも、また事実です。無論、逆方向も理解しきれません。
自身の事を一番理解し、寄り添えるのは自身しかいないのです。
乗り越え解決出来るのも、自身の行動次第です。
ただ、いつもこのことを話すと自己チューと勘違いされて困るのですが、誰かからSOSサインが出されたなら、互いに手伝い合うのは至極当然です。
少なくとも、他人任せでは僕たちは尚の事、富山型共生などと、わざわざ共生を押し付け強制さられる窮屈な思いを味わうだけなのです。

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