よーしあーきーと時々ラテとはろ&ちび

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雑談

妄想日記

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今月初めに会社の上司に提出した、僕の頭の中を書いた作文です。
少し修正してブログにも転載します。

自由市場を維持するための社会

特養増設との方針が出た際、経済人らからは同時に技能実習生制度へのビザの更なる規制緩和と、移民についても見直せとの意見が相次いだ。
「外国人技能実習生制度」というのは、平たく言えば貧困国の国民に対し、膨大な渡航費用などの負担を”実質”なくす優遇策を取り、先端技術を学びながら日本の企業の労働力として誘導する仕組みである。
自身で調べ勉強し、その上で日本に行きたいと思って貰えるなら手放しで大歓迎なのだが。
現在、介護の業界における技能実習生制度は施設でなら認められている。
その施設が増えることで、実習生制度を使い、一つの日本における介護モデルを作りたいのではないだろうか。
日本人の介護職員なんて集まるはずもない現状を知って。
それがもし、ある程度定着するのなら、もっと一般企業を含む範囲の拡大を狙っているのかも知れない。
とも、勘繰ってしまう。
とにかく、正式なルートを経て日本に来られるのなら何ら文句はないのだが、この実習生制度を利用して得をするのは、日本企業のみと言っても過言ではない。
介護が必要な方は介護施設へ、そして外国人が介護を担う。
このまま行けば、近い将来、現実に起こり得ると思われる。
「効率」や「合理的」などを求め過ぎると、必ず一部のエリートだけで世の中を回せば良いとの考えに辿り着く。
とにかく、効率的にひと固めにし、合理的にやりたい人(誘導された人)だけでやらしたいのだろう。

誰の為のデザインか

さて話は変わり今回の本題です。
現状の日本国内も見渡せば、そういった誘導による集合体を形成させようとしているものは、随所に見受ける。
地域そのものをデザインしてしまおうといった着想の下、政治的誘導にて、介護が必要な方や生活困窮者、介護職員を移住させて来ようといった、おかしなことを行いだした自治体がいくつもある。
この都市計画(デザイン)というのは、僕の知りうる限りでは、EUや北欧各国、オーストラリア、ニュージーランドでは強く支持され推進されていると聞く。
コンパクトシティ計画なんてものはまさにそれである。
また、一時預かりが現状のデイサービスも、第三者からのプランニング(人の生活をデザイン)が介在する時点で誘導に依るものが大きい。
そして、それが最善策と盲信し、本質を捉えきれない人も多く見受ける。
僕が思い描くような地方自治体における、社会福祉事業の自由な裁量とは正反対のことであり、地域住民に需要があるから独自の判断で行うのであって、供給が需要を産むわけではない。
また、施設入所やデイサービスなどの施設通所は、需要者(特に当事者)の観点に立てば、優先順位も限りなく最下位に近いであろう。

結局、誘導は誰の為?

現在、地方創成として注目され始めた「お金をあげるからうちの地域においで」や、「似た境遇、同じ考えの人でコミュニティーを作れば良い」というのでは、供給者の目線であり、デザインなんてものは「無知の善意」でしかない。
一定の時期が来たら、又は、社会生活が困難であるからある地域で住ませ、すぐそこにある資源を使わせるように誘導して行く。
そして、その地域に元々住んでいた人の立場は?その方々のことまで、本当に考えられているのだろうか。
これでは、ナチスの優生学思想や、50 年代のアメリカが行った通称赤狩りといった発想とも背中合わせの様に見受ける。
自分たちと考えが共有出来ない人を一定の土地に固めるか排除する。
ナチスでは、社会保障で厚遇するといった政治誘導を行い、障害を抱えた人や能力が劣る人に子供を産まなくする政策を取った。
そこまではしないが、誘導し集めておけばいいとの発想なのではないのか。
いや。そのことにすら考えに及ばないのかも知れない。
余談ではあるが、累進課税強化では、稼ぎ出す能力の高い人を排除することに繋がる。

脆い正義感

また、普段介護や福祉に携わっている人間からも、そのデザインされた介護シティ構想や富山型(幼老障共生施設)の介護が、優しい世界と賛美されている。
福祉を真剣に考えている自分たちの方が正しく優れているのだから、その正しい考えの持ち主だけで寄り集まり、楽しくやって行こうという美徳意識や、「昔は良かった」といった盲目的な懐古の情が浮かび上がる。
『昭和』と『現代』とでは、情報を手にしやすい状況、便利な物で溢れかえっているという、個の生活における自由度、豊かさで土台部分が大きく異なる(それでも介護事業所の情報は中々出て来ないが)。
『昭和』にこだわる人は、この部分の認識の抜け落ちが大きい。
昭和の時代は何も知り得ない人が大勢いたということだ。
社会から分離、区別され、(正確な)情報が手に入らない、または考えないのであれば、現代の日本においてもその中で幸せに生活していけるであろう。

前進するには歴史に学ぶ

確かに、自分一人で全ての生活が賄えるなんて考えは、僕自身に毛頭にもない。
だからといって、こういったものに活路を見い出していては、いつまで経っても同じところから抜け出せないであろう。
また、考えることを止め、仕方がないなどと言った(時計の針を戻そうとなどと言った)、安易な逃げ道を作ってしまわず、もっと歴史から学び知識を付けていかなくては、迷い込んでいることにも気付かない訳だ。
残念な結果を招く。新しいアイディアも浮かばないだろう。
自由放任資本主義(古典派経済学)の巨頭アダム・スミスは、「国富論」と対に「道徳感情論」というものを書いている。
それが何を意味するのかを考えるのもいいだろう。

子供時代のインクルージョンに希望をよせて

また、私はつい最近、インクルージョン教育に光を見出している。
このインクルージョンの世界も本当のところは単純明快な世界である。
しかし、実現には沢山のアイディアが必要になり、沢山の人の理解も必要である。
それこそ地域一体になり取り組まなければ、実現はないのだろうと思われる。
そして、インクルージョンが一番定着しやすのは、子供の教育過程にあると思われる。
大人のように、そうでないとならないといった「常識」などがない。
一緒に机を並べ学び、『同級生』と一緒に物事を行うにはどうすればいいのかを考えるよう働きかける。
そうなれば、相互間の誤解や誤認識も減らせるだろうと考える。
倫理観もいずれ将来的には成熟状態に近づけないだろうか。
『相克』の状態も多少の歩み寄りが可能ではないだろうか。
抽象的な話ではあるが数学における「平行線」には、交わる点が出て来る(非ユークリッド幾何学)。
平行線が人の潜在意識としてある平面上にではなく、もし曲面を通っていたのなら。
例に挙げれば地球儀の緯線。
凝り固まった大人の脳では、中々視点を変えてはいけないだろう。
柔らかい頭の子供時代になら自然と定着するかも知れない。
そして、勉強が出来る子供には、ドンドンやらせることも考えなくてはならないのは、もちろんのこと。
しかし、現代の公教育の在り方では、荷が重すぎる。

最後に

困難なことも地域の力で乗り越え、機会を奪われず分け隔てなく一緒に学んできた子供たちが、大人に成長した時に、現在のような『幻想的な平等』ではなく、『発想の広がり』により、社会が新たな一歩を踏み出しているのかも知れないと、私は今日も妄想に耽るのである。

※優生学とは
世界大百科事典 第2版の解説
C.ダーウィンの従弟であるF.ゴールトンが1883年につくり出した言葉で,ギリシア語の〈よい種(たね)〉に由来する。
1904年の第1回イギリス社会学会で彼は《優生学――その定義,展望,目的》という有名な講演を行い,ここでその学問を,〈ある人種の生得的質の改善に影響を及ぼすすべての要因を扱う学問であり,またその生得的質を最善の状態に導こうとする学問〉と定義した。
したがって優生学には理論上,結婚制限,断種,隔離等により望ましくない遺伝因子を排除しようとする〈消極的〉優生学と,税制優遇や法的強制により望ましい遺伝因子をもつ人間の多産や早婚を奨励する〈積極的〉優生学がありうることになる。

※相克とは
デジタル大辞泉の解説
そう‐こく〔サウ‐〕【相克/相×剋】
[名](スル)
1 対立・矛盾する二つのものが互いに相手に勝とうと争うこと。「理性と感情が―する」

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