よーしあーきーと時々ラテとはろ&ちび

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実体験 障害者支援 雑談

理解するは願望

更新日:

「理解なんてものは概ね願望に基づくものだ」

僕が大好きな「イノセンス」という映画での荒巻大輔の言葉。

ちなみに理解とは、

りかい[理解]

( 名 ) スル

① 物事のしくみや状況、また、その意味するところなどを論理によって判断しわかること。納得すること。のみこむこと。 「内容を正しく-する」 「 -力」

② 相手の立場や気持ちをくみとること。 「 -ある態度」 「相互の-を深める」

③ 道理。わけ。また、道理を説いて聞かせること。 「義理ある兄貴の-でも/人情本・軒並娘八丈」 → 理会

④ 「了解」に同じ。 〔同音語の「理会」は物事の道理を悟ることであるが、それに対して「理解」は物事の意味・内容をわかることをいう〕

(大辞林第三版)

願望とは、

がんぼう[願望]

( 名 ) スル

① ねがいのぞむこと。がんもう。 「強い-を抱く」 「栄達を-する男」

② 〘心〙 精神分析で、主に意識されていない欲望のこと。

(大辞林第三版)

要は、人は物事を論理的に捉えわかっているようで、実は「そうであってほしい」という感情による判断が大部分を占めている、と、いうこと。
まあ、そのままだけど。

僕自身の環境からか、今も昔も「相手のことを理解してあげなくてはいけない」や「私のことを理解して欲しい」といった、言葉やシーンとよく遭遇する。
また、同業の介護職の方の話を伺うと、
「みなさま、デイサービスに通うことで、生活にハリが出来、表情もイキイキとされています。」
「作業所に通所して、モノを作って売ることが、こんなにも楽しいことだということが彼らも理解した。」
「スポーツを通して、彼らがもっと輝ける場を用意してあげなくては!」
みたいな、わかったようなことをよく見聞きします。

僕は、日頃からこれらのことについて「それは無茶でしょ」と、感じています。
“願望”という分厚いフィルター越しでの“理解”、人の理性なんてものは当てにならない。
“理解”という美辞麗句で、多くの人を振り回しているように見受ける。
なので、この映画のこのセリフが特に強く印象に残っています。
まあ、特に人間関係に思うことがあり、このセリフを勝手に僕の境遇に照らし合わせているので、この映画のこのセリフが持つ主たる訴えと、セリフから僕が受け取った内容に相違が必ずあるだろうけども。

少しでも相手のことを理解しようとする試み自体を否定したい訳ではないのです。が、ドヤ顔で理解出来る、出来ている、なんてあまりに軽軽なのでは?と。
ひとりの人を理解するのに、どれ程の時間を費やさなくてはならないと、考えているのだろうか。

一人では困難なことを、様々な人が協力して解決することは重要だけども、過程や結果を人の理解が得られる状況に導いてもらわなければならない義理なんてない。
上記の通所施設の話の例で言えば、例えば、単に自宅かそこかの2つの場しか選択肢がない中で、自宅の方に居場所がなく、親や家族からなんだかんだと口うるさく言われるよりはマシてだけ。と、いう可能性はないのでしょうかね。
または、実は知らないだけで、そこじゃなくても満足出来る場所は他にもあるかもしれない。
知らないが故に、なんとなく自分を納得させているだけ。と、いうことは考えられないでしょうか。
もっと生活が便利になり、繋がることが容易くなり、選択肢や価値が多様化されたとしても、果たしてそうなるのかな?と。

「介護をするから得られるものがある」
これとかも、介護という行為に願望からくる意味を持たせ理解することによってすれ違いが起き、物事をさらにややこしくしている。
僕がひねくれているせいか、要介護状態だからこそ、その人に価値がある、と、言っているようにも受け取れる。
介護という行為に特別意味はなく、人と接し同じ時間を共有するから意味がある。

まあ、とはいえ、一部は理解出来ているかも知れないです。
例えば、障害や服薬によって疲れやすく、辛い、しんどい、てのは、僕も継続して経験しているので理解が出来る。
ただし、これもふんわりとした雰囲気だけが、理解が出来るんだけども。
というのも、数学の幾何学のように誰の目にも同じに見えて、カチッと値を取ることが出来ないので、辛さ、しんどさの値、程度といった、これらのあいまいな感覚までは共有出来ないですからね。
なので、ふんわりとした雰囲気でしかわからない。

しかしながら、なんだかんだダラダラと綴りながら、昔は、僕も例に漏れず、自分を理解して欲しい、と、願望を抱いていました。
ただ、そもそものところ、自分自身のことすらも自身で理解が出来ていないのにね。
意味のない出来事に、まるで意味があったかのように考え当てはめ、迷宮に迷い込むことがしばしば。
そして、未だにそこから抜け出ない。
残念ながら。
世間も、全く意味のない、若しくは、意味を失った出来事に意味を持たせ、かつ、あたかもそれが絶対的だと信じ込み、様々な物事を理解したつもりに浸っている。

僕的には、理解なんてものは要らないから、もう少し放っておいてはくれまいか、つまり、僕のような社会的にイレギュラーな存在でも、少しは信頼してはくれまいか、と。

「理解なんてものは概ね願望に基づくものだ」

人を理解することは、とても長い時間の付き合いを必要とすることだと思うのです。
漬け物石のように、上からのし掛かるような願望で、自分が理解出来ることを相手に押し付けるのではなくて、是非とも、その人が何をしようとしてきたのか、何を成し遂げたのか、その足跡を見ていてもらいたい。

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